息子へ,もしくは家内へ

息子と家内に言葉を残すための日記

09.08.19

今日も、まだ出張中。
明日、やっと家に帰れる。
細かい雨、ときおり雨。
15:00頃、早めに仕事を切り上げ、宿へ。
仕事の合間、湿原の写真を数枚撮影。

この日も思った。
数日前に「人間の視覚は、ときに望遠、ときにレタッチする」と書いたが、今日も同じようなことを考えた。

広大な緑、牧草の広がる牧場があった。
午前9:00頃、霧雨の降る朝、牧場に霧がかかり、空は灰白色。
幻想的だった。
そして、試しに写真を撮り、すぐに液晶で確認。
すると、やはり自分の認識している景色とは全然違う景色だった。

人間は、直接に眼に見えないものまで見ているのではないか。
地平線から自分の眼下にまで広がる風景があったとして、
その風景を少し上空から鳥瞰するといったら良いのか、
そのような想像力を働かせた上で、人間の眼は認識していることに気がついた。
だから、写真を見ても眼で見たものと違ってくる。

写真に写された景色やもの、逆にそれらをどう認識したらよいのか。
現場を見た本人ではない。
鳥瞰するとか、想像するとか、そういったことからは断ち切られている。
しかし、完全に断ち切られているわけでもなさそうである。
自分が他人の写真を見るとき、どうみているのか?
他人が自分の写真を見るとき、どうみているのか?
自分が自分の写真を見る眼と、他人が自分の写真を見る眼とは、
どうやら違っていそうである。

今まさに自分にとって何が問題なのか?
想像の眼と現実の眼。
写真が想像の眼に近づいたとき、満足する。
そういった写真は、撮りたい人に任せておけばよい。
だんだん、わけがわからなくなってきた。

ただ今日、一つのことに気がついた。
ただそれだけか。

その後、清水穣「日々是写真」を読む。
昨日難解だった中平卓馬の項。
今日のことがあり、一夜にして難解ではなくなった。
今日のことに通じる一節。
「・・・現実を装った虚構の視覚・・・。荒れ・ブレ・暈けは、写真批判を徹底して実現するため、通常の写真(例えばある風景)から、あらゆる意味内容を削ぎ落とし、「虚構の視覚」を除去していくための方法・・・。」

「コンポラ写真・・・自然にこそ人為を、日々の現実世界にこそ写真のような配分dispositionを見出し、それをそのまま写し出す写真・・・。」

今日考えたこと、まさに、とは言わないが、「虚構の視覚」のことではないか?
今日考えたこと、著者が意図することよりは、見方が狭いことではある。
が、自分の目指すもの。
それが、「虚構の視覚」ではないことだけはわかる。
虚構の視覚ではないもの、写真の配分に依らないもの、そういったものを撮りたい。

何をどうのように撮るか?
というより、出会ったもの・ことに対するときの自分の姿勢、といったことか。
何のために写真を撮るのか?
まずは自分を分析すること、それが必要ではないのか?
考えてみる。
ファインダー越しに見えるもの、または定着された画像から見えるもの、自分にとって、まずはそれが魅力である。
カメラアイ、といったものか。
とはいっても、自分の眼で見、眼でファインダーを覗き、眼で出来上がった写真を見る。
カメラアイも、やはり眼を媒介にしている。
眼を媒介にしない写真、そういったものはあり得るのか?
自分もやはり、虚構の現実を楽しんでいるだけなのか?

今やデジタル。
何度でもチャレンジできる。
少し考えてみよう。
何かが垣間見えるかもしれない。

清水穣「日々是写真」、森山大道の項も読む。