息子へ,もしくは家内へ

息子と家内に言葉を残すための日記

09.08.16

日曜日。
実家での最終日。
父の入院から約2週間になる。
祖母は退院、祖母・父入院に伴う手続き関係はほぼ終了、ちょっとだけ安心。
あとは父の回復を待つのみ。後遺症が心配。
母が実家に一人、それも心配。

午前 母・家内・息子を連れてスーパーで買物。
息子や近所の雑草など、数枚撮影。
ただ何となく撮っただけ、気持ちが入らない。
もっと他にも自分の気づけないシャッターチャンスはあるはず。
そういうのを見つけたい。

午後 家内・息子と父の見舞い。用があるので早めに退散。
白石駅にて、ポケモンスタンプ押印。
自宅近所のスーパーで買物。
息子が寝ているので、自分は車で待機。
駐車場から見える景色を数枚撮影。
逆光でカメラの液晶が見えない。
で、遠くに見える山並みと雲、液晶無しで撮影。

きれいだな、と思っても写真には写らない。
人間の視覚とカメラの眼は違うんだな、と実感。
人間の眼はときに望遠、レタッチなど、取捨選択している。

その後、やっと自宅に戻る。
図書を返却に図書館へ。
中平卓馬 来たるべき写真家」、飯沢耕太郎「写真について話そう」
は、途中半端で返却。前者の方は、またいつか借りる予定。
写真集という気分ではないので、また読物を4冊借りた。

自宅に車を置き、駅へ予約していた切符を取りに行く。
行き帰りに写真を数枚撮影。
枯れかけのアジサイを撮った。

どういう気なのか?いつも枯れた花を撮っている。
満開に咲いた花を撮るのは、当たり前すぎる?
そういうことだけか?
きれいなものを、ただきれいだなと単純に撮る、
そうすると絵葉書になりそうで怖い。
そういう気持ちはある。
色が鮮やかすぎる?、何か自分を超えているようで、
思うように撮れない、そんな気もする。
蜷川実花さんの花の写真は、あれはあれで良いとは思うが、
自分には撮れないな、とも思う。
なので、きれいな花もモノクロになる。
カラーで花を撮るときもあるが、それは花じゃないもの、
花ではないものを撮っている、そんな感じ。

自宅に戻り、夕飯。