息子へ,もしくは家内へ

息子と家内に言葉を残すための日記

中学時代の自分~その4「他者から見た自分」

承前)

>1.これまでの人生で最も苦しかった局面について

(中略)中学校に入ってからは、少しずつ自己中心的(中略)。己のアイデンティティを確立していく年頃・・・できず(中略)。「中学時代の自分」、「極めて普通の中学生」(中略)。「鮮明に記憶に残っているあの場面(ちょっとした心の引っ掛かり)は、本当はこうだったんじゃないか?」。(中略)それが考えられるようになったのは、自分を責める気持ちを捨てられるようになったから(中略)。

1.友達(と思っていた人)から家に招かれることが少なかったような・・・

2.奇を衒っていたわけではないのに、何かおかしな記憶が・・・

3.周囲から「しかと」されることもあったのに、自分はなぜか平気だった?・・・

承前)

 

今回は、

>3.周囲から「しかと」されることもあったのに、自分はなぜか平気だった?・・・

について書いてみます。

 

結論から言うと自分はいわゆる「KY」=「空気を読めない」青年だったのではないかと思います。

 

何故かというと、自分本位の傾向が非常に強かったからと分析しています。

自分が他者にどう思われているかは全く意に介さず、「自分が(より優位に気持ちよくなるために)他者にどうしたいか?」を優先的に思考し、まさに「他者に自分のやりたいことを押し付けてきたのではないか」という実感があります。

 

そうすることで、された側は自分にどんな感情を抱くのだろうか?・・・そこは、完全に思考(想像)できていなかった。一般的な言い方になりますが、「周りが見えていなかった」のだと思います。

 

中学生時分の若かり頃には、そういう時もあるでしょう。ですが、私の場合、すべての事においてそうだったのでは?・・・と思いたくなるほど、そういう記憶が脳内を支配しています。そこだけを切り取って覚えているだけなのか?、すべてがそうだったのか?は、今となっては知る由もありませんが、少なくとも非常に自分本位な行動・言動をしていたことは確かで、何故かいまだ鮮明にその場面だけは記憶しています。おそらく、相手からのリアクションが自分の創造を超えていたからこそ、強烈に脳内に記録されてているのではないかと。

 

そうなると、「他者が自分をシカトしても平気」・・・というのも、一定程度は理解できそうです。他者が自分をどう見ているかは全く問題とせず、自分が他者にどうしてやろうか?ということが律速となり、相手が嫌がっていようがいまいが、どんどん他者に自分の意思を押し付け入っていたのではないかなと、今になって反省しています。記憶にある場面が、そういう場面だけなので、そういう行動・言動をとった頻度とか恒常性はわかりませんが、とにかく、そういうことをやっていた自分は確実に居た(中学時代)ということは言えます。

 

逆にやっかいなのは、家ではいわゆる「良い子」だった・・・ということ。それも、自分の反省すべきところです。周りから見れば「良い子」なので、親・親戚等に何か疑われることもなく(おそらく)、当時は子供同士で物事を解決するのが基本だったので、他者からチクられることもなく、中学時代の自己中心的な日々を当たり前のように過ごしてきた自分。

 

その代償は、のちに支払うことになるのですが、そのことはまた別の機会に書いてみたいと思います。