息子へ,もしくは家内へ

息子と家内に言葉を残すための日記

家内と息子の性格について話をした

 - 2016/01/06(Wed)
 昨日,ちょうど息子がいなかったので琴似の中華屋で外食したんだけど,その際に息子の性格について話をしました.まずは「恥ずかしがり屋だよね,うちの隼は・・・」と.話はこれに尽きるんだけど,「恥ずかしがりは,自分の子供時代とまったく同じだわ」と言うと,それを聞いて家内は納得してました.もう一つ「あまりに恥ずかしがり屋だと,小学時分はいいけれど中学・高校と大人になるに連れ,友達が出来にくくなるので注意しないと・・・」と.これは完全に自分の経験上の話し.
 息子は恥ずかしがり屋だけど,今(小学5年)は友達はたくさんいるようです,自分がそうだったかは記憶が定かではないけれど,はっきり覚えてるのは高校生になった途端,友達が激減したことです.今になって考えると,いろんな中学から人が来てるので,自分の恥ずかしがり屋さんぶりが出てしまった結果なのかなとも思います.違うかもしれないけど.その結果かどうかははっきりとはわからないけど,なんだかみんなと打ち解けることができなかったんです,実際.「友達」というものが,一体どういうものなのか?それがいまいちわからずじまいで,おそらく今も定かではありません.
 自分には「友達とは?」の問いに経験から答えられる自信はありませんが,今思うにく「辛いことを相談できる相手」なのかなと思います.自分は辛いことは周囲には決して漏らさず,自分の中だけでなんとかしようと思っていた節があります.節があるどころではなく,今もその性格を引き継いでいます.いろいろな経験を積んで,今は自分43歳になりましたが,上記のような辛いことを抱え込む性格というのは,周囲の人間を自分のことを親身に考えてくれる「仲間」だという感情,言い換えると「味方になってくれる感」が自分には無いのだと思います.どちらかというと,人の言動・行動に懐疑的になり過ぎ,人を完全には信用できず,「信頼できるのは自分だけだ」感がとっても強いのだと,今になって思います.
 他人を信頼できる人間になるためは,どうしたらいいのか?また,どういう場面でそういう感情が養われるのか?自分にはまったくわかってないんです.まずは,自分(という親)が人を信用すること無くしては,息子のそういった感情も育たないということはわかります.ただ,信用ばかりして疑うことを知らなければダメですし,難しいところです.「あの人のお陰で自分は助けられた」というような話,そういった話は自分の子供時代にはまったくありません.大人になってからはあるかもしれないけど,そういう感情がほとんど湧いていません.いったいどうしたら良いものか・・・.ただ,おそらく子供時代の経験がそのようにさせているのだと思います.自分が子供の頃,だれかを信頼して相談して,その結果なにかうまくいったという経験がまったく無いんです.自分が育った家庭環境のせいばかりにはできないけど,やはりこういう根本的なところは子供時代に植えつけられる可能性が高いのかなと感じます.
 自分にできることは,今後,息子の友達関係に注意を払っていくことかなと思います.あまり介入しすぎるのも良くないけど・・・.「あいつはダメだ」,「こいつもダメだ」とか,人を疑ってかかるような発言ばかりではなく(思えばそういう発言が多くなっている),「あの人はこういうところが良いところなので,信頼できる人だ」など,疑りつつも信頼できる人(友達)がこの世にいること,そして「友達」に助けられることもある,ということを(嘘でも良いから)息子に積極的に言っていきたいなと思います.