息子へ,もしくは家内へ

息子と家内に言葉を残すための日記

中学時代の自分~その3 3つの自分のバランス

承前)

>1.これまでの人生で最も苦しかった局面について

(中略)中学校に入ってからは、少しずつ自己中心的(中略)。己のアイデンティティを確立していく年頃・・・できず(中略)。「中学時代の自分」、「極めて普通の中学生」(中略)。「鮮明に記憶に残っているあの場面(ちょっとした心の引っ掛かり)は、本当はこうだったんじゃないか?」。(中略)それが考えられるようになったのは、自分を責める気持ちを捨てられるようになったから(中略)。

1.友達(と思っていた人)から家に招かれることが少なかったような・・・

2.奇を衒っていたわけではないのに、何かおかしな記憶が・・・

3.周囲から「しかと」されることもあったのに、自分はなぜか平気だった?・・・

承前)

今回は、下記について。

>2.奇を衒っていたわけではないのに、何かおかしな記憶が・・・

中学時代は、それ以前もそれ以降にも見られない傾向がありました。それは、「急に踊りだす」、「急に歌いだす」、「急にセリフのようなことを口走る」・・・など。すべて「急に」という冠がつきます。

これはざっくり言うと、過去数日以内に見た(り聞いたりした)映画・ドラマ・歌番組・お笑い番組などに影響されていた公算が高いです、というか確実にそう。いわゆる「成りきり」・・・よく幼児・児童が仮面ライダーの真似するみたいな。ほんっとにほんっっとに、自分って「幼稚」だったと思います。思い浮かべると、今でも心がキュッとなります。

ここで、おそらく自分のキャラ的観点で重要なことは、周囲のクラスメート全体に向けて「成りきり」を見せるわけではなく、「とても仲が良いごく数人」にだけに見せていた…ということ。「すごく仲が良いごく数人」というワードは、それ以後も、ずっと心に引っ掛かり続けたワード・・・なぜ、ずっと心に引っ掛かっていたのか?それは、自分が一番よくわかっています。

少しだけ説明を試みますが、悲しいことに、正確には「とても仲が良い(と一方的に自分が思っていた)ごく数人」という表現が正確だということです。さらに悲しいことに、それを大人にるまで認識できていなかった・・・という事実。それを思うと、心がキューッと縮み、とても悲しくなります。ですが、それも一瞬だけで、思い出すだけで傷ついたりはしていない(と思ってる)のですが、いまだに心がキューッとなるのは事実です。

過ぎたことを悔やんでもしょうがないことはわかっています。ですが、「なんで自分はそうだったのか!?」、「家庭も特に問題があるわけではなかったじゃないか」と。正直言うと「自分は悪くない」、「環境?誰か?雰囲気?のせいで、自分はそうなってしまったのだ」・・・と、自分以外にその原因を求めてしまう自分もいます。「人のせいにしないで自分事として考えよう」などと、普段家族に言ってる自分が、「悪いのは自分以外、それは誰だ!?なんだ!?」と、未だに自分以外のせいにしてしまう自分がいます。

もう少し掘り下げると、「自分が思う自分ではなく、他者から見た自分にまるで考えが及んでいなかった」という風にも言えるかなと思います。人には「自分が思っている自分」、「他者から見た自分」、「こうありたいと思っている自分」・・・と、3つの自分が居ると聞いたことがありますが、まさに自分は、「自分が思う自分」と「こうありたい自分」だけが先行してしまっていたのだと思います。

自己愛が非常に強かった。自分が好き、自分以外にはほぼ無関心、極論すればそういうこと。「自分さえよければ良い」そんなんじゃダメだと、それは当時からわかっていたつもりですが、振り返ると実は全然わかっていない。それは、周囲がだんだん冷たくなってくことも十分あるな・・・と、今だから当時のことを思い返すことができます。

それはそれ。今はその点を十分踏まえ周囲と付き合っているつもりなのですが、中学の時のことを30年後に悔やんだように、例えば40歳の自分を70歳になってから悔やむことはあるのだろうか・・・と。それは残酷なことかもしれない、そう思いつつ、できるだけ3つの自分のバランスを保ちながら日々を過ごしていきたいと思っている(齢50)。

 

次回は

>3.周囲から「しかと」されることもあったのに、自分はなぜか平気だった?・・・

について書きたいと思います。