息子へ,もしくは家内へ

息子と家内に言葉を残すための日記

09.08.26

父の手術のため、仕事は年休。

朝8:00、病院へ向かう。
手術前30分、父を見舞う。

その後、家内と息子を義理妹の家へ送迎。
行き帰りに写真を数枚。
いまだに朽ちかけた建物を撮ってしまう。
しかし、出来上がりを見てうんざり。
何故撮るのか。気持ちの整理がつかない。

あと家内のヒップも。
明らかに森山大道だな、とうんざりしながらも、
撮りたいんだからしょうがない。

15:00頃 手術が無事終了。
まだ朦朧とした父を見舞い、一旦実家へ。

ソファーで少し眠る。
17:30頃 再び父の病院へ。
母を病院で降ろし、家内と息子を迎えに。
病院で少し意識のはっきりしてきた父を見舞う。

その後、ほか弁購入。
ほか弁屋の外で写真を数枚。

夕食。

夕食後、港千尋の「予兆としての写真?」を読む。
一部共感。
だけど、アートについての深い見識にはついていけない
ところもある、しかし、どんどん読み進めたくなる魅力。
何故かはわからない。
2/3ほど読んだところで、日記をつける。

少し考える。
過去に撮った写真は、すべて陳腐に感じる自分について。
へたすると、昨日の写真まで陳腐。
写真に撮られた瞬間から、写真になったものから興味が
薄れていく、ということか。

どんどん写真を撮って、撮った先からまるでそこの地図
を真っ黒く塗りつぶしていくような感覚に近いか。
何かで読んだことがある、「世界を所有したいという欲望・・・」、
自分の世界に帰属させたい、そういうことなのかもしれない。
獲物を射止めれば、それで終わり。
昔、鉄砲の形をしたカメラもあった、と読んだことがある。

撮れれば、はいそれまで。
良いのか悪いのか?