息子へ,もしくは家内へ

息子と家内に言葉を残すための日記

09.08.21

衰弱し、仕事に行けず。
朝から寝てばかり。

ふと夕方、本を読む。
今一度、一昨日から気になっていた部分。
清水穣の「日々是写真」森山大道の項を読む。
気になるフレーズがたくさん。

・・・写真のモダニズムとは「ストレート」のことではなく、「スト
レート」と「ピクトリアル」の両極のあいだを動くことである。言い換えれば、「詩」「文学」あるいは「洗練を超えた洗練」において、本当の意味で「ストレート」の倫理が完成する。つまり「洗練を超えた洗練」とは特殊な「ピクトリアル」のありかたである。それは本来的な「ストレート」の状態を実現するための手段として導入される。・・・
クラインはありとあらゆる人為的な操作を-あからさまにピクトリアルな効果を-プリント段階で加えている。・・・「ストレート」と「ピクトリアル」は目的と手段の関係にある。つまり、荒れ・ブレ・暈けは「ニューヨーク」というストレート・ドキュメンタリーを実現するための、ピクトリアルな手段であった。・・・
「写真よさようなら」・・・断片性、スピード感、画面への傷、汚れ、痕跡、露光不十分ないしアンバランス、焼き付けの失敗、コマ落とし、ネガの切れ端、フラッシュだけで暗闇から浮かびあがる光景、ノーファインダー。これらはすべて「引き算」の表現である。撮ろうとする自我の消去、自己表現の消去、無思考、無作為、偶然性の写真、つまり見えない、考えない、選ばない写真。その結果、何かを写したのではなく、何かが写っていた写真、「写った」という事実だけの写真が残される。・・・
・・・つまり荒れ・ブレ・暈けとは、「リアル」な存在を抉(えぐ)り出すために、偽の現実の被膜を削ぎ落とした痕跡なのである。・・・リアルな世界の出現とは、通常の世界の消滅にほかならない。リアルな世界は究極的には不可視であり、それはただ、その遭遇の痕跡としてのみ現われるのである。・・・

などなど。

以前から感じていたこと。
「荒れ・ブレ・暈け」は、究極のピクトリアルではないのか。
やはり、間違いではないようだ。

それと、「自己表現の消去、無思考、無作為・・・」は、ここ数日考えていたことである。そのために「写真よさようなら」は出されていた。
でも、「さようなら」ではないという気がする。
これからやっていくぞという意気込みのように感じる。
もう一度、見てみようと思った。

「写真よこんにちは」